夏の暑さはどこへやら、秋らしい涼しさが街を包む日曜日のお昼。
昨夜の中秋の名月の美しさと言ったら、なるほど月明りで勉強をするのも不可能では無いなと思わせる輝き。
町の至る所に燈る生活の灯が夜景として映えつつも程よく満月の引き立て役となり、どこからともなく虫の声が聞こえ、都会の喧騒と華々しさが和の風情に調和する美しい夜を過ごした。
今記事を書いているこの時間、昼食も終わり、どことなく家全体にただよう、良い意味での気怠い雰囲気。
部屋に吹き込む気持ちの良いそよ風に全身を撫でられ、ほどよい眠気で夢の世界に誘われそうになるそんな時間。
まさにうららかな秋日和…ん?あれ、うららかって春の日和のワードだっけ?
なーんて、ガラにもなくちょっとおしゃれっぽい文章を書いてみたり。
うららかな秋日和とか書き出してる時点でもうボロが出ちゃってるし、何よりこういうの得意な人は冒頭からもう「こいつ無理してそれらしいこと書いてるだけだな」なんて見破られてしまうだろう。
さてすでに休職に入って100日+一週間、3桁日数という大台に乗った。
9月もすでに1/3が終わっている。
こういう数字の積み重ねがどんどん大きくなると、自分はいったい何をしているのだろうという思いが大きくなってくる。
何をしている、って何もしてないのだけどね。
「何もしていない」という状態に対して「何をしているんだろう」という疑問を投げかけるのだからややこしい。
一時期極端に落ち込んでいた食欲ややる気なんかは、波があるけど少しずつ戻りだしてはいる。ちょっと無理するぐらいに動けば体はなんとかついてくるみたいだ。
たまにものすごい落ち込むのはやっぱ変わらない
どこまでが適応障害なのかもはやわからない。ストレスにさらされずに休んでいるはずなのだが、その休みが本当に休めているのかがわからなくなってきた。
休めているように感じさせるために軽度なストレスがかかり続けていて、浅いところでは休めているのに深いところでは休めていないような、そんな感じがずっとしている。
ずっと休み続けている負い目から来るストレスもある。今の自分が世間体をまったくなしていないストレスからは目をそむけたくなる。
「休む」ってどういうことなんだろう?というのがわからなくなってくる。
今の自分はパワハラされたことへの抗議、という意味合いも込めているとは何度も書いているが、それは休職を続けて仕事をサボりたいがための免罪符に過ぎない。……と自分では考えていたけれども、そういう理由ならもう少し心が休めているはずでは?と思う。
そんな理由で休みを謳歌出来るのならば、毎日ゴロゴロして働く人間を見下しつつパワハラ先輩への恨みをぶつけたりして、良い方法では無いがリラックスはしているはずだ。
長く休んでいること、仕事へ復帰したいと思えなくなってしまった自分に対して自分で見栄を張るため、虚勢を張るために、パワハラへの抗議なんだ、と思い込んでいるだけじゃなかろうか?
全ては自分の事なんだから答えは自分で探すしかないし、自分でしか見つからない。それなのに自分の事が全然わからない。
自分は本当に休めているのか?