就活失敗男の路線バス営業所おつとめ日記(ただいま休職中)

18卒の就活生でした。売り手市場と喧伝されているのを真に受けて就活を舐めた結果、秋まで内定先が決まらないという痛い目を見た挙句、入社してからは業務のしんどさとパワハラまがいの扱いをされて精神を壊してしまった失敗だらけの社会不適合者。今はとある路線バスの営業所で定期売ったり電話対応したり配車係の仕事をやって───いました。現在2回目の休職してます。営業所のお仕事日記を書きつつストレスや心の闇をぶつける暗いブログ

休職91日目

毎月25日は給与が支払われる。休職中でも有休の消化はされており、今まではそれなりの収入はもらえていた。しかし流石に有休が尽きたのだろう。

今月25日、まさに今日この時なのだが、給与の振り込みはされていなかった。

いつか来る日だというのは当然わかっていたし、意識はしていたが、自分で有休消化がどれほどなされているのかを把握できない現状、どのタイミングで来るかはつかみかねているところがあった。

そもそも有休が何日あって今までに何日消化したかわかってないのは自分で管理が甘かったと痛感している。(無計画に使っていたりするわけではない。本来会社の規定では4週8休なのだが、4週10休が取れるようなシフト体制を組んでもらえるおかげで、いつの間にか年休が消化されているのだ。)

正直に言うと、ちゃらんぽらんな自分でも今月か来月にはゼロになるだろうというのは流石にわかっていた。それでも少なからず残っている有休があったり、バス会社特有の特休(祝日にも働く分、それを有休のように好きに使えますよ、という制度)の付与があったりして今月少なからずもらえるのでは?という期待もほのかに持っていた。

そのほのかな期待は本当にほのかでした。

 

さぁ、いよいよ収入ゼロの生活が始まるわけだ。

収入が無い一方で、支払わなければいけないお金というのは免除はされない。これをどうやって支払っていくか。蓄えは人並み以下ではあるものの無いワケではないので、これを切り崩しての支払いになるだろう。ついにお金の心配もしなくてはいけなくなった。

休職中なのに、そもそも有休消化をしていて良いのか?という点が引っかかるのだが、そこは就業規定をちょっと確認しておくことを胸に留める。

休職してると思っているのは自分だけで、おそらく会社としての処理的には有休消化からの欠勤扱いになっているんだろうな。

 

将来への不安、世間体への不安、自責の気持ちからくる不安、お金の不安、ここまで不安だらけだと、もう何も考えがまとまらなくなってくる。

不安が大きいとぼーっとしてくる。解決策なんて無い。ただひたすらに中身の無い不安な気持ちに押しつぶされそうになるだけ。

 

ちょっとインテリ気取った話を挟む。

そんな不安について考えている折、ふと脳裏をよぎったのが芥川龍之介の「或旧友へ送る手記」の冒頭だ。

恐らくこのタイトルよりも「唯ぼんやりした不安」などの呼ばれかたの方が一般的かもしれない。

この手記を書いた後、芥川龍之介は自殺した。

君は新聞の三面記事などに生活難とか、病苦とか、或は又精神的苦痛とか、いろいろの自殺の動機を発見するであらう。しかし僕の経験によれば、それは動機の全部ではない。のみならず大抵は動機に至る道程を示してゐるだけである。自殺者は大抵レニエの描いたやうに何の為に自殺するかを知らないであらう。それは我々の行為するやうに複雑な動機を含んでゐる。が、少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である。

 

唯ぼんやりした不安というのが、まさに今の自分に言いえて妙だと感じて思い出したのだろう。

もちろん、歴史に名を遺す大文豪と自分程度の人間の悩みが同列であるとは思えないし、一口にまとめて語れるものではないのは承知の上なのだが、今持っている不安に対しての思うところが唯ぼんやりしているという感覚なのは同じだ。

 

流石に自殺することなんて考えてはいないけれども、でもそういう手段を取ってしまう気持ちはわかる。様々な不安を解決するための究極の選択肢。芥川龍之介はともかく、自分のような「逃げ続けてきた人間」の最後に行きつくところ。終着駅。

私の人生というレールが伸びている先はその終着駅では無い、と今のところ思っているが、レールを伸ばすことの魔力にいつか憑りつかれる日が来るかもしれないと思うと、それもまた唯ぼんやりとした不安である。